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歴史・史跡
菅谷館跡
菅谷館跡は、都幾川と槻川が合流するあたりの台地上にある城郭で面積は約12万平方メートル。現存している土塁や空堀は鎌倉時代に畠山重忠が構えたと伝えられる館跡ではなく、その後しだいに拡張された戦国時代のもの。昭和48年国の史跡に指定され、現在県が保存に当たっています。
鬼鎮神社は、畠山重忠が菅谷館築造のとき、艮(うしとら、東北)の鬼門除けとして祭ったと伝えられ、金棒を持った鬼が奉納されています。戦時中は軍人や家族の参拝でにぎわい、今は受験生の祈願でにぎわっています。また、変わった節分として全国に知られています。
正平7年(1352)に、新田義宗は、宗良親王を奉じてこの峠に布陣しました。終日戦ってやがて夜になり、加勢を恐れた新田軍は、夜中ひそかに軍をまとめ越後路へ落ちていきました。その夜に笛の名主宗良親王は、戦場の緊張をしばし忘れて笛を吹きました。笛吹峠の呼称はそこからおこっ
義賢の墓は、大蔵館跡から少し離れた東方の新藤氏の屋敷内に小さな祠の中にある五輪塔だと伝えられています。
慶長10年(1605)このあたりを支配していた高木甚左衛門正綱が、その父筑後守広正の追福のため、高木山広正寺と父の名を寺号として開基しました。高木家は徳川家譜代の家臣で、三方原にて戦攻を立て、家康関東入国後、当地方4か村2千石を受領しました。なお、この寺にはご朱印が保存され、本堂裏には広正夫婦より代々の宝篋印塔が整然と建立されています。
大蔵館跡は帯刀先生源義賢の居跡で、土塁、空堀りの跡が残っています。源義賢は、当時秩父に威勢を振るっていた秩父重隆(畠山重忠の祖父の弟)の娘をめとり、秩父氏の力を借りて、仁平3年(1153)に、ここに移り住んだといわれ、久寿2年(1155)8月16日の大蔵合戦の際、兄義朝の子悪源太義平に攻め滅ぼされました。
鎌形八幡神社と木曽義仲の産湯清水鎌形八幡神社は延暦の昔(782)坂上田村麿将軍が、九州の宇佐八幡をこの地に観請したと伝えられ、その後源氏の氏神として尊祟され、武人の神として信仰を集めてきました。
また源義賢の子木曽義仲は、この地鎌形の木曽殿屋敷に誕生し、鎌形七清水の一つ、八幡神社の清水を産湯に使ったと伝えられています。
平安時代のはじめ、坂上田村麿将軍は、天皇の命を受け東北遠征の途中、将軍沢の日吉神社まできていました。はるばる京都から追いかけてきた奥方に、将軍は激怒し橋のたもとで夫婦の縁を切って追い返したと伝えられています。
班渓寺と山吹姫
班渓寺の墓地に山吹姫の墓と伝えられる五輪塔があります。山吹姫は木曽義仲の妻であり、木曽の中原兼遠の兄にあたる二男の兼保の娘だともいわれています。義仲が粟津原で頼朝の差し向けた軍に打たれ、またそのころ、鎌倉に人質になっていた嫡男義高が、鎌倉から鎌形館に逃れる途中、入間川畔で殺害されたので、夫義仲と嫡男義高の菩堤を弔うため、この地に班渓寺を建立したと伝えられています。
また、班渓寺には、「威徳院殿班渓妙虎大姉」と書かれた山吹姫の位牌が安置されています。

